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一杯のかき氷――塔ノ岳から大倉へ、煩悩に敗れたコンフォートゾーン
2026年10月26日
一杯のかき氷――塔ノ岳から大倉へ、煩悩に敗れたコンフォートゾーン
世には「日本三大急登」と呼ばれる名コースがあるらしい。 甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根、谷川岳の西黒尾根、そして烏帽子岳のブナ立尾根である。個人的には、南アルプスの農鳥岳から奈良田まで一気に下る標高差2200mのハードコースも加えて、「四大急登」にしてほしいくらいだ。
もちろん今回紹介するコースは、それら深山幽谷の急登に比べれば都心からのアクセスも抜群な低山である。しかし、山慣れた者でなければその高低差を十二分に体感できる本格ルートだ。低山ゆえに夏場は猛烈な暑さでバテてしまうため、挑むならゴールデンウィークか、秋の今頃がちょうど良いだろう。
そのコースとは、丹沢のヤビツ峠から二ノ塔、三ノ塔と縦走して塔ノ岳に至り、そこから大倉までの標高差1100mを一気に下り切るというものである。 ……と、急登の話から始めておいてなんだが、実はこのコース、真骨頂は「急下り」にあるのだ。
道中にはいくつかの山小屋があり、そこで食事を取るのも楽しみの一つだが、もう一つの見どころは荷物を背負って山を登る「歩荷(ぼっか)さん」に出会えることだ。テレビなどのメディアで見ると、筋肉隆々の大柄なマッチョマンを想像しがちだが、実際にお会いすると意外にも小柄な方が多く、そのギャップに驚かされる。 重たい資材を担いで高度を上げるには、力任せでは到底太刀打ちできず、身体の使い方やコツこそが全てなのだと実感させられる。何を隠そう私自身、二ノ塔の登りでヘタレ込んでいた際、通りかかった歩荷さんに優しく励まされたという恥ずかしい過去がある。
そうした過酷な手作業を経て運ばれた食材だからこそ、山小屋でいただくご飯や飲み物は、何ひとつとして疎かにできないありがたみを感じるのだ。
さて、実際の行程に話を戻そう。 ヤビツ峠までバスで登ってしまえば、かなりの高度を稼げるため一見楽なように思えるが、どうしてどうして。10月初旬の涼しい風の中でも、塔ノ岳の山頂に着く頃には大量の汗をかいていた。吹き抜ける強風の肌寒さが、火照った体にはたまらなく心地よい。
そしてここからが、本番の急降下である。 足元は滑りやすい砂利道が多く、やがて段差の大きな階段地獄へと突入する。小柄な女性なら飛び降りるようにして下りなければならないほどの段差が延々と続き、山に慣れていない人には少々恐怖を覚えるかもしれない。
下りは下りで膝や太腿の体力を削られていく。太陽を背に受けて歩くため汗は引きにくく、体内からじわじわと水分が抜けていくのがわかる。
そんな疲労がピークに達した頃、前方の小屋に「氷」と書かれた赤い旗が風にひらめいた。
「いやいや、そんな誘惑に屈してはならん」 下山口の大倉に着いてから温かいお汁粉でも食べよう、と自分を鼓舞して煩悩を振り払う。しかし、少し歩を進めた先にある次の小屋でも、またしても「氷」の旗が揺れていた。
しかも良く見れば、小屋の脇で若い女性パーティーが実においしそうにかき氷を頬張っているではないか。一度は通り過ぎようとしたものの、煩悩具足の私に耐えられるはずもなかった。引き返した私は、迷わず「イチゴかき氷」を注文していた。
一口口に含んだ瞬間の、あの全身に染み渡る美味さといったら! 地上で買う倍近い値段がしようとも、まさに値千金の一杯。甘いイチゴシロップの冷たさに満たされながら、私は最高のコンフォートゾーン(安らぎ)に浸ったのだった。