イスラムを知って、日本を知る── 私の宗教観を変えた旅

これまでイスラムについて何度か書いてきた。

今回は、私自身が旅の中で感じたイスラム社会について、少し整理しておきたいと思う。

最初に断っておきたい。

ここで述べることは、あくまで私個人の体験をもとにした感想であり、学術的な研究や宗教学に基づいたものではない。

その点をご理解いただいた上で読んでいただければ幸いである。

以前、会社の同僚が仏教を題材にした音楽グループについて、「何だか気持ち悪い」と言ったことがあった。

私はその時、少し考えさせられた。

なぜ私たちは、宗教的要素を含む音楽や表現に違和感を抱くのだろうか。

私なりの考えでは、その背景には日本社会の特徴がある。

多くの日本人は、日常生活と宗教とを別のものとして捉えている。

何を食べるか。

何を着るか。

どこへ行くか。

その選択が宗教によって大きく制限されることは少ない。

神社へ参拝するのも個人の自由である。

お寺へ行くのも自由である。

行かなくても問題ない。

また、自らを「無宗教である」と考える人も少なくない。

しかし私は、この言葉には少し補足が必要ではないかと思っている。

それは、「特定の宗教を信仰していない」という意味で使われていることが多いからである。

例えば、

お米を粗末にしない。

先祖を敬う。

墓参りをする。

落ち葉を掃き清める。

豊年祭や地域の祭礼に参加する。

こうした行為そのものが宗教かと言われれば違うかもしれない。

しかし、人間の行動様式や価値観の形成には、長い歴史の中で宗教や信仰が深く関わってきたように私には思える。

私自身もその一人である。

私は浄土宗の檀家であり、先祖代々のお墓を守っている。

その一方で、新年には近所の神社へ初詣にも行く。

秋の豊年祭にも参加する。

特に矛盾を感じたことはない。

おそらく、多くの日本人も似た感覚を持っているのではないだろうか。

ところが、イスラム社会を旅していると、少し違った風景が見えてくる。

もちろんイスラム世界と一口に言っても、地域や国によって大きく異なる。

私が訪れたインドネシア、マレーシア、モロッコなども、それぞれ文化や習慣は違っていた。

しかし共通して感じたこともあった。

それは、宗教が日常生活の様々な場面と深く結びついているということである。

礼拝の時間になると人々は祈る。

食事にも一定の規範がある。

家庭生活や共同体の中にも宗教的価値観が息づいている。

旅をしながら私が感じたのは、「宗教と生活が切り離されていない」ということだった。

そして、そうした社会の中でカッワーリーのような音楽が広く受け入れられていることにも納得がいった。

ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの歌声に初めて触れた時の衝撃は今でも覚えている。

私は当初、「宗教色が強い音楽が、なぜこれほど大衆に支持されるのだろう」と思った。

しかしイスラム社会の日常に触れるうちに、その疑問は少しずつ薄れていった。

もちろん私はイスラム教徒ではない。

今後もそうなる予定はない。

しかし旅を通じて学んだことがある。

それは、異文化を理解するということは、相手を知るだけではなく、自分たちの文化を見つめ直すことでもあるということだ。

私にとってイスラム世界との出会いは、イスラムを学ぶ旅であると同時に、日本人である自分自身の価値観を問い直す旅でもあったのである。